某陸橋下のトンネル。 私が苦労して(でもないけど)やってるのより全然いいんだ。ロボットかなにかの顔にも見えますね。
垂れているのだって見事にアートだ。それを意図しない故にアートになるのですよ。作為から遠いのが面白いのです。
気が向くまま思うままなにひとつ方向性を持たない必ずしもアートを目指さないアートブログです
某陸橋下のトンネル。 私が苦労して(でもないけど)やってるのより全然いいんだ。ロボットかなにかの顔にも見えますね。
垂れているのだって見事にアートだ。それを意図しない故にアートになるのですよ。作為から遠いのが面白いのです。
この頃家の周りが冴えないのです。近所の動向とか家のメンテナンスとかでやることが増えて、近所ごとはイライラ気苦労に繋がるし家のメンテはそれとともに金銭の負担が伴います。家が古いからしょうがないのですが、あまり手入れするのも考えもの。私は適当に古いのが好き。絵もそれに近いですね。
いっそあちこちやり替えてやろうかとたまに思ったりするのですが、やり始めるとそれも大変で、しかもやることが多すぎていつも途中で断念してしまいます。
本音を言うと絵もそれに近いですね。ある時はこの雰囲気で、とかあれこれ思うのですが、それもいくらも進展のないまま挫けてしまいます。
なんでだろうなと思いながら、小学校時代の先生なんかの評価を思い出します。なんでも長続きしない、飽きっぽい。
飽きっぽいというのは、今や単純に浮気性なんでしょうね。それで生きてきたので今さらどうにもならない。絵だってどうにもならない。
でも家のメンテだけはあれこれとやっているのです。ここの住んでいる間はね。
わっはっは。
あ、そうそう…、近所ごとに関しては、なんだか以前と雰囲気が違うのですよ。知らない間に全然無反応な人が越してきている。ロボットみたいに歩いている。
うーん。近所が変というのは、ちょっとばかりこれも気苦労なのですよ。浮気性に気苦労があるのかどうかわからないですが、あるのです。
居酒屋をはしごする途中。 街灯りの木漏れ。私にはとっても魅力。
木漏れ日がそもそも魅力的なものだからつい目が行ってしまう。
いつも思うのです。この辺をなんとかできないかなって
思うばっかりで進まない。そのうち何とかしたいけど。
暗中模索。それが正直なところ。でも何かになるような気がする。あれこれやっているうちに面白いものが出る。でなければそれまで。この頃の私は単なる古い壁のひび割れとかに好奇の目が行ってしまうのです。ごわごわの樹皮とか。道路の裂け目とか。
それが何故か知れないけど、そである限りは素直にそこに従っておこうという状態です。何かを世間に問う等ということはない。もうそんなことには興味がありません。だからこれは、非常に小さな、完全に個人の領域の楽しみです。
上から絵具を垂らして勝手にできるイメージを面白いと思うなら、この感じは理解できると思います。ただ、私のやることにそんな出来の良いものはありません。このブログの狙いはそこではないのです。
あっはっは、別にどこでもないけどね。模索をするのがここの仕事です。
その辺の絵具でただ適当に、思いつくまま描いてみたら一体なにが見える。海の上を行く船に見えないこともないし荒れ地の向こうの工場にも見えなくもない。言ってしまえばそれが、ただ好きで描いているようなものです。このままでも充分に具象とも言えるかもしれませんが、でもより具象へ進んだら大抵失敗する。なんだかおもしろくなくなるのですね。これは経験です。
私の場合、勝手気ままをやっているから描いているようなもので、最初に狙いがあって完成に持って行くことがほとんどありません。それで十分に楽しんでいるのです。筆跡を言えば、それこそ本当にピッ!と言う感じで乗せるのが好きでし、早く言えば筆を楽しんでいるとでもいうのでしょうか、でもそうすると他の道具を使ったときには楽しみはないのか。そんなことはありません。何を使っても共通するものがあって、この辺の説明はやや理屈っぽくなるし退屈ですからやめておきます。
部分的にみれば、そこから別のイメージに発展できそうなところが沢山あります。私はしょっちゅうやるのですが、時には逆さまが面白かったりします。しかしこうやって描いていることそのものが、なぜ何だろうなという気が消えません。何の因果でしょ。