物事はそこだと思います。他人と感性がズレていることなどこの際関係ありません。それを言っていたら人は皆観る者を意識したものしか描きません。商売を考えたらそれがもっともです。しかし少なくない描き手は、それとはまた違った意識で描いています。そして、何をやっても良いのだと考えます。
勿論、描いて世間に見せているのですからそれなりの反応は一応は気にするところです。しかし、それであっても見る人を意識し過ぎた絵はなんとなく面白くないものです。私の場合、今や全くの個人的な楽しみと呆け防止以外の何でもなくなってしまいました。筆を動かしている、絵の具をこねていることが楽しいのです。ブログはまあ、描いたから作っているようなものでしょうか。
現在私が、例えればどんなタイトルでも付けられそうな絵を描いていることを不思議に思います。ほんの数年前には考えもしなかったことです。この変化それ自体が、私には面白く感じます。
人は何をなしてどこへいくのかは、結局のところ誰にもわかりません。名を成したっていつかは人類も滅びます。何か意味があるでしょうか。それともないでしょうか。それさえ今はまったく分からなくなりました。でもそれを言い始めたら生きていることさえわからないと、いつも同じ答えになります。
私は居酒屋でぼんやりするのが大好きですが、居酒屋はお金が出て行くところであって、居酒屋値段と言うのがあるのでスーパーで揃えるよりは高い出費です。食べるだけならそれだけを考えた方がよいでしょう。しかし私にはそれが楽しみなので不経済であってもそれを楽しみます。不経済といいつつ、楽しみの代償としては安いものです。
絵を描くことによる経済的損失は、もし売却しないのであれば絵の具代個展代その他諸々が消えて行きます。でも、描くことが楽しければそれをする。それ以上を求めても答えは出ません。
私は他人様との絵画論はしません。その趣味ではないのです。やりたくてウズウズしている人に遭遇するとちょっとしんどい。まあ、そういうことはあるのですが、多少は渡世の義理ですね。
眼が多少(でもないのですが)不自由であると言っております。伝えるのが難しいのですがやや奇妙な見え方をしています。無論医療機関に頼っています。不安を抱えつつですが、絵が大雑把な方向に好みが変わってきたのもその影響でしょうか。何が切っ掛けでどう変わるか知れないと思います。
いつまで描けるかなと、そんなこともふと考えます。
絵は一貫して安価な材料で描いています。基本は文具アートです。描いてしまえばわからない。そんな面白い部分もあります。
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