これについて説明することに、私は、少なくともいまのところはあまり関心がありません。また、克明に描かれた具象であってもなくても、私のなかでは特別に分ける意味を持ちません。
このことは、或いはもしかして、この頃痛感している自分の目の衰えと関係しているかも知れません。今の私には、もう描いている絵の細部はあまり見えません。具体的に言えば、巷のブログも、小さな文字が選ばれている記事は既に読むのが苦痛です。
ということは、いつか外科的な対処によってこれが変わってくる可能性がないとは言えないかも知れません。しかし、元々私自身は具象であってもあまりに精緻な表現には惹かれるものを感じません。だからこれは、きっと来るべき事柄だったのです。自分が描いた具象画であっても、部分的なものに分解して表現し直した方が面白いと感じることが多いのです。この頃の取り組みは専らそれです。何が描かれてあるかどうかは、徐々に関心事ではなくなりつつあります。
ついでに、と言っちゃなんですが、私は廃墟趣味があります。美しいとは必ずしも言いませんが、廃墟は独特の雰囲気が漂っています。なかには美しいと感じる人もあるでしょう。打ち捨てられた瓦礫などはとても描画意欲を誘います。生理的に汚らしいものは遠慮しますが、朽ち果てたものの美とでも気取って言えば良いかも知れないですが、いちいちそれを言う必要もなく瓦礫は私の眼を惹き付けます。もっともそれを、そのまま描くかどうかはまた別の問題です。
手っ取り早く言えば、触発されるものはなんでも描いて、今はともかく、そこに尤もらしい意味は求めない。
そうことにしております。
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