2024年10月19日土曜日

描かれてあるものがなんであるかについて

これについて説明することに、私は、少なくともいまのところはあまり関心がありません。また、克明に描かれた具象であってもなくても、私のなかでは特別に分ける意味を持ちません。



このことは、或いはもしかして、この頃痛感している自分の目の衰えと関係しているかも知れません。今の私には、もう描いている絵の細部はあまり見えません。具体的に言えば、巷のブログも、小さな文字が選ばれている記事は既に読むのが苦痛です。

2024年10月9日水曜日

興味をそそるものがあればそれはアート

私はそう思っています。事実そうだと思うのです。便所の落書き大いに結構。便所に誰が落書きするのか知れませんが、見たことはあります。結構上手いのもある。便所の落書きはクズの例えで用いられますが、理屈はどうとでもなります。退屈な大作よりもそちらに惹かれるものがあれば、それは立派なものです。茶化しているのではありません。



別に珍しくもないですが、私はチラシの切れ端にも、時として面白みを感じることがあります。あるいは廃墟の壁に染みついた模様などにも面白さを感じるときがあります。意図して描かれたものよりもウンと興味深く感じることがあります。

2024年10月2日水曜日

私の眼は日によって見え方が違う

困ったものですが、いつの頃からかそうなってしまいました。医者は手術あるのみと言っていますが、躊躇せざるを得ません。良く調べてみると、必ずしも良い結果ばかりではないようです。



問題はこういうことです。もし現状で留まるなら何とか我慢できる。しかし手術の結果次第では悪くなる可能性がない訳ではない。これは賭けみたいなものです。

ネット上で見つけたある人にコメントしたのですが、なるべくは時間を稼げと、つまり早まるなと言っていました。その方は良い結果ではなかったようです。しかし悪化が顕著ならしょうがありません。その時は良い方へ転がってくれることを祈るのみです。

昨年の今頃を考えると、残念ですが悪化しています。しかし問題はここです。ここで踏みとどまってくれれば…。

2024年9月28日土曜日

どこをさまよい何を探しているのか

絵を描くことは、何かを探している作業です。少なくとも私にとってはそうです。何を探している? いえ、それさえはっきりと答えが出ません。それは偶然の結果だったり、むしろ狙い通りに行かなくての結果だったりします。ちょっと気取って例えてみれば、その行き着く果てとでも言えばよいでしょうか。


タイトルは想定しない

しかしながらアートが面白いのは実にそのような部分であって、それで良いのだと私は思っています。 迷い人とでも言えば良いかも知れません。アートは、次から次へと未知です。そうあるべきだ、とまでは言いません。人にはそれぞれ考え方があります。しかし私に関してはそうです。

2024年9月10日火曜日

何とかなっている以上は作業を継続

思いもよらない障害に遮られたら気力そのものも萎えてくるのですが、それでも何とかなっている間は、つまりは絵を描いている日常を継続することです。過去は概ね油彩での作業でしたが、あまり広くない日本の住宅事情をお察しください。私のように好奇心に基いたことの何でもを、とにかく時間の制限のなかであれこれと取り組んでいる人間にしてみると、油彩は何かと場所を取り保管も大変で一々が簡便ではありません。


なので現在は、概ね水だけで描ける作業を好んでいます。これは透明水彩にしろガッシュにしろ水彩絵の具は僅かな時間を無駄にせず作業ができて、しかも油分の加減だのという面倒なことがありません。充分な余裕ができればいずれ油彩を楽しみたいとは思っていますが、しかし私は既に人生のかなりを過ごした人間で、油彩に復帰できるかは判断の難しいところです。