2025年6月1日日曜日

古い印画紙--2

現れる模様に何かを感じることがあるかないか、そこは微妙な分かれ道です。汚れやカスレは時には魅力的な模様を作るし、時には暗示的でもあります。



勿論、なにも感じなければそれでも良いのです。私も全てのことに何等かを感じているわけではありません。しかし感受性は多くても悪くはありません。

印画紙というよりこれはフィルムと言った方が良いでしょうか。タイトル上のことで大した意味はありません。どこかの風景を撮影したもののように、一見、池か湖のような風景が下部に見えます。上は殆ど空でしょうが、何が出現しています。

映画を観ていると、時々映写機からカラカラと音を立ててフィルムが外れるときのシーンを暗示的に入れることがあるようです。改めて探すとなるとなかなか見つけられないのですが、過去には何度も見かけました。あのようなシーンが度々用いられるのはどんな理由からでしょう。

そうです、あの頃から、というよりこれは時代とは関係ないのですが、古いフィルムに、シミかカビか汚れか知れませんが、シーンに浮かび上がる映像を眺めて、まあ、これはちょっと説明が難しいのですが、ぼんやり眺めていたことがあります。

つまり、なんであっても誰かが敢えて工夫したものではないところの模様とでもいうのか、描くものよりもそういうものに魅かれるのです。

2025年5月23日金曜日

描画の途中で何故か立ち止まる

分岐点みたいなものが見えるのです。そのまま具象に進むか抽象風にした方が面白いか。いつの頃からかこれが顕著になりました。



以前ならこういうことはありません、そんまま何の疑問も感ずるところもなく具象に走りました。しかし一旦別の表現を試み始めたものには、それに応じて分岐点が増えてきます。これは苦労とも言えるし楽しみとも言えるものです。

今の私にはは克明描写はかなり遠い存在になりました。もっとも、最初からあそこに入る素地はまったくありませんでした。子供のころからそうでした。せっかくの絵画なのに何故あそこへ行くのか、という疑問もあるにはあるのですが、そこは個人の自由であります。人にはそれぞれの世界がある。

こういうことですので、具象であってもなるべくはその人個人の表現方法が如実に表れている描画に私個人としては魅力を感じます。この絵も、具象で行くにしても、ここから様々な方向へ持っていけます。

しかしこのブログでは概ね抽象現代風でまとめたいと思っています。模索を進めているわけです。そしてずっと模索が続く。

何故と思いつつの毎日です。不透明な水彩です。

2025年5月18日日曜日

古い印画紙

その気になって言えば、描かれるものは何でもアートな訳です。特に古いものから想起されたものの魅力はとても香ばしいものです。



砕けて言えば、そう見えた瞬間で既にそれはそれで良いのです。そこに適当にタイトルを付けて尤もらしくしても良いししなくても良い。だから、楽しい。

勿論、人には好き好きがあります。私に関して言えば、目的を持って描かれたものでなくても魅かれるものが沢山あると普段から申しています。 

モノクロに関してはより一層その感を強くします。出足からして目的を持たない方が良いとすら思います。

とはいえ、このブログの進め方と同様、私自身描いていることの理由すら自分でもわかりません。描いてそれがどうなるのか、そんなことばかり考えます。現実にこうやって少ない閲覧者様に見せているしかないのです。

それ以上のあれこれはやめましょう。そういうのはいつだってうんざりですから。


2025年5月10日土曜日

何気の落書きが面白い

何かを狙って描くことは描く人の概ねがそうであって、そこを充実させねば達せるものはないでしょう。しかしながら物事は、期待しないものからでも当たり前に生まれるものです。



何気もない描画でもない描画に、時々引っかかるものがあります。こういうことは何度も起きていて、いつかは描画のヒントになることと思うのです。特に描くものがやや抽象風に傾いてからはその傾向が強いです。これはダメだと思ったものに少し絵の具を被せるだけで別のイメージが浮かんでくることが少なくないのです。

もっとも、そこから結果的に成功に結び付く確率はまだ低いのですが、それもあまり気にせずに絵の具を扱うその時点を楽しむことができれば得るものは多いのではないかと思うのです。

まあ…、なんでも前向きでなければ進展はしません。どんな取り組みをしたって他人様が困ることはありません。なんでもやってみたいと思いますね。

これは遊びと考えてよいでしょう。が、遊びは非常に重要なものを含んでいます。

2025年5月2日金曜日

現れたイメージに魅かれるものさえあれば

物事はそこだと思います。他人と感性がズレていることなどこの際関係ありません。それを言っていたら人は皆観る者を意識したものしか描きません。商売を考えたらそれがもっともです。しかし少なくない描き手は、それとはまた違った意識で描いています。そして、何をやっても良いのだと考えます。



勿論、描いて世間に見せているのですからそれなりの反応は一応は気にするところです。しかし、それであっても見る人を意識し過ぎた絵はなんとなく面白くないものです。私の場合、今や全くの個人的な楽しみと呆け防止以外の何でもなくなってしまいました。筆を動かしている、絵の具をこねていることが楽しいのです。ブログはまあ、描いたから作っているようなものでしょうか。