2024年7月31日水曜日

想像するのが楽しい

他人にどう見えようが、それは問題ではないのです。自身でそこに何かを感ずればそれで良い。いつの日だったか、私が街の図書館を訪れた時、駐輪場の壁に偶然残された雨の染み跡が眼に入りました。


夜会

それは本当に誰の作為でもなく勝手にそうなったものです。そこに面白さを感じるとはどういうことでしょう。一々の分析はこの際止めておきましょう。早く言ってしまえば単にその模様の類が私の好みだっただけかも知れません。言葉を沢山乗せて尤もらしくすることもできるかも知れませんが、私はそれをずっと避けています。そういうことはむしろ面白くないのです。

2024年7月26日金曜日

意図しない絵の面白さ--3

私は、例えてみれば見ようによってどうにでも解釈できるアートが好きなのです。少なくとも今のところは…。何によってどう描かれたかわからぬ絵は、個人的にはとても楽しい。



何故?それについての説明はとても難しい。平面アートには、つまりこの場合は何らかの画材を平面の上に展開するアートですが、非常に長い時間と訓練と我慢の後でしか達せないものがある一方で、全くの偶然であるか意図しない描画が時として同様の説得力があったりする。ここに面白さを感じたのです。

2024年7月19日金曜日

意図しない絵の面白さ--2

具象画であれば、概ねは何らかの形を描く訳ですが、形も色も何等の意図を持たないイメージも時として私の目を惹きます。



それが何を表しているかと問い始めたらこのような行為は突然つまらなくなります。しかし偶然のなかからどこを選ぶか、などについては人の意志が入ります。恐らくはその部分如何によって随分説得力が違ってきます。しかしここではそれをもなるべくは考えずに遊びに徹するのです。遊びこそ面白い。しかも形に拘らない絵こそこの場合は面白いと思うのです。

他愛ないと考えるかどうかはその人次第です。しかしここは出来の良い悪いや説明は考えないで偶然にできるイメージにもっと関心を持ちたいと思うのです。私にとっては重要な作業です。

上の絵、取りあえず絵として置きますが、どうやって描かれたものかはしばらくは黙って置きましょう。絵を描くには本当に色んなことに取り組まねばならず、これはその一環です。

一方で、形は不明でも完全な意図を持って描く場合もあります。抽象画と言っても多くはそうではないでしょうか。しかしこの場合はそれもないです。

あまりうるさく考えないで遊んでみましょう。

2024年7月12日金曜日

アートにタイトルが要るのだろうか

意図した場合は当然タイトルは必要でしょう。しかし大抵の場合、タイトルは渡世の義理のようなものです。私は、特に最近ははっきりとした形を描くことが少なくなりました。ものの連想で描くようになったのです。その連想したものに対してタイトルは可能です。しかし、それほどの意味があるでしょうか。



色んなことがわからなくなりつつあります。例えば上のイメージはあまりものを考えずに自由に筆は操作、そうです、描いたというより操作したと言うほうが適当かもしれません。更に、何を描こうという意図もありませんでした。しかしその結果にはそれなりに興味の対象になる部分を見いだせます。ここから幾つかのイメージを連想することができます。

2024年7月3日水曜日

それは何をイメージしても構わない

私はこのようなことが好きなので日頃ずっと似たようなことをやっています。つまり、何等の意図も持たずにできた模様からイメージを連想するのです。


遠望

個人的な面白さに遊んでいるとも言えるのですが、ここには描画のひそみの部分があると思ってるのです。描いてもその雰囲気が出ないのに何故か偶然がそう見える。この不思議を思うのです。


葦の生える沼

勝手なタイトルを付けていますがつまりは何でも良いのです。もっと他が連想できれば添それで良い。


丘への斜面

もし回転させて他の物に見えればそれでも良い。ここはイメージを受けて脳がなにを判断するかに任せます。これらはただ単に絵の具や墨を流したものか或いは他の意図を持って描いたものを別の角度から眺めたりしたものです。筆の動きひとつとっても、それを追いかけて描いたものよりさり気なく無造作に、偶然に媒体に触れたかのようである方が私にはグッとくるのです。

勿論誰しもがそうだとは言いません。これは完全に私の世界です。しかしこれが私の絵画の原点でもあるのです。

とはいえ、とてもうまくは説明できません。追々イメージを公開するのみです。