2024年7月26日金曜日

意図しない絵の面白さ--3

私は、例えてみれば見ようによってどうにでも解釈できるアートが好きなのです。少なくとも今のところは…。何によってどう描かれたかわからぬ絵は、個人的にはとても楽しい。



何故?それについての説明はとても難しい。平面アートには、つまりこの場合は何らかの画材を平面の上に展開するアートですが、非常に長い時間と訓練と我慢の後でしか達せないものがある一方で、全くの偶然であるか意図しない描画が時として同様の説得力があったりする。ここに面白さを感じたのです。

修練が要らない、と言うことではありません。私は技術を否定する論者には着いて行けません。自分のアートにはそれが必要だと思った人はそれを身に着ける必要があります。意見はそれぞれであり、それを否定する必要はありません。人によって、どうしても出したい表現はそれなりの訓練を積まねばならないことが当たり前にあります。それを否定する人が時折存在することに私は心を痛めています。上手く描く必要はない--とかの論です。それを得意顔でいう人に度々遭遇します。

それはしかし、人それぞれなのです。そして、単に--上手い下手--という言葉を悪意に、或いは自分の論に好都合に用いるのは良くないと思います。更に忌憚なく言えば、それを言う人こそ、むしろ自分の絵が他人にどう評価されているか、自分のお説にどれだけ人が感心しているかについて非常に気にしています。ほんの少し人間通になれば誰でも理解できることです。私が思うに、そういう人の根源は強すぎる見栄です。見栄は大抵逆に出ます。これはなるべく捨てたいところです。

しかし今ここでやっていることは、自己の修練とはほぼ関係ない部分です。私はその面にも充分に面白さを感じるのです。

とはいえ、こういうことも言えそうです。世の中に完全な無作為はあり得ない。偶然に見える全てのことも、結局はよく修練を重ねた人に味方する。

誰が言ったことばだったか。

0 件のコメント:

コメントを投稿