このブログは出戻りです。つまり過去に運用していたブログを一旦整理した後の継続です。途中から少々考え方も変わったり、種々の事情がありました。そのことはもう詳しくは述べませんが、当時描いたものなどもちょっと筆を入れたりで見直してみたいと思います。
そんな意味で、過去と今を考えることは決して無駄ではないと思います。なかなか感慨深いものがあります。時間と共に色々と変わるものがあります。流れのままにそれに従いたいと思います。
このブログは出戻りです。つまり過去に運用していたブログを一旦整理した後の継続です。途中から少々考え方も変わったり、種々の事情がありました。そのことはもう詳しくは述べませんが、当時描いたものなどもちょっと筆を入れたりで見直してみたいと思います。
そんな意味で、過去と今を考えることは決して無駄ではないと思います。なかなか感慨深いものがあります。時間と共に色々と変わるものがあります。流れのままにそれに従いたいと思います。
モノクロの画像が多いと思われるでしょう。必ずしもモノクロだけで描いているわけではありませんが、例えば私は写真に関してもモノクロが好きなのです。何故という分析をしたことはありませんが。
ややこしい言い方です。しかしそう例えるしかありません。ある日私は無造作に重ねられた、すっかり枯れた切り枝を路傍で見つけました。樹木は伸びるのでたまに切り落としてやらねばなりません。町内でも時折は道路に伸びた危険な枝を伐採しています。余談ですがこんな場合は持ち主との関係でちょっと面倒だったりもするのですね。しかしとにかく日常的にそのようがことがあります。
山に入っても同じような場所を見つけることがあります。伐採した大きな枝を積み上げて長い間放置している場所があります。訊けばこの場合はそのまま腐らせてしまうそうですが、そんなに早く土に還ってくれるのでしょうか。私にはなんとも不思議な世界のように感じます。
私の個人的な取り組みです。大袈裟なことではありません。偶然に散らばった絵の具の跡からでも様々なイメージを思い浮かべてみようということです。
私は、以前は綺麗に整えられたイメージが好きでした。当然のことですが、物が整えて描かれてあると他の物を想像することはありません。しかしそれを大雑把にでも、あるときはかなり適当に形を分解して幾つかのパターンに置き換えてやると、そこから他の形や物事を想像できるようになる--これが面白いと感じるようになったのです。
逆に言えばこれは、適当に散らばった図形からでも、見る人によって様々なことが想像されるということで、近頃の私はかなりその虜になっています。狙いをもって描いた絵を逆さまに見ると、その方が面白いときがあります。
だからどうだという話になると困ってしまうのですが、興味深く感じている間は続けてみる考えです。
そうそう、例えば象さんやお猿さんが描いた絵などもなかなか面白かったりしますね。それらは現実にそれなりの値で売られていると聞きます。アートは全て見る人の感じ方ですからあまり制限はない方が良いと思います。
何が生まれるか、あるいは生まれないかも知れないけれど、描いている私が面白く感じていればそれで良しとしましょう。
偶然とアートの関係を以前から語っています。そこに何が描かれているかについて、作家は説明する必要があるでしょうか。これは随分昔から色々と言われている問題です。私自身も迷うことが多く、しかしながら、あまりの説明は避けるようにしています。
この絵は、タイトルがあることによって想像が導かれるタイプの絵だと思います。もしタイトルがなかったら、人によっては単純な模様にしか見えないかもしれません。小さな田んぼ、或いは池でも良いのですが、点在するその間を縫うように続いている畔の小さな道です。どこかに人らしきを描けば、私たちの脳は明瞭にそれを思い浮かべると思います。急にピントが合ってくるのです。
言葉は、時には慎重になることが要求されます。まるで作為のない単なる偶然によって描かれたイメージにも興味深い部分を発見できることを思っています。しかしそれを絵と言えるかどうかは私には分かりません。しかし取りあえずは絵と言って置きましょう。
それ故こう仰る方が現実に居られます。そんなのは絵ではない。絵と言うのは意図して描くから絵なのであって、偶然の結果は単なる模様だと。
その判断は今はしないで置きます。と言いうより、私にはあまり興味が持てません。実際、そんな意味で言えば、ふふふ、それこそ意味と言ってしまうのですが、具象画だっていったいどこがアートなのでしょう。私には分からなくなります。