2025年7月31日木曜日

具象抽象と情けなくもあるが

片方で具象を描いているのです。私はあまり丁寧な段取りをやりません。性に合わない。いきなりバシャバシャと置いていく。だから最初だけをみると、いったい何を描こうとしているのかすら知れない。


ところがこの頃はむしろその段階の方が面白いと感じてしまうのです。 もちろんそのままでは作品にはならないけど、そのまま完成を目指すよりも他へ持って行った方が面白いと、そう感じ始めて以後は、もう物事が一定方向に進まない。もっと言えばだんだん具象画描けなくなってきつつあります。

それはそれでよいのですが、同時に困ったことでもあります。そのまま具象へ進んだら、後の展開が退屈で仕方がないのです。これっていったいどういうことなんだろう。

いや、抽象に引っ張るにしても到達点はここではない。もっと描き込まねばならない。双方に時間を割いて、それはそれで良いのだろうか。いつも迷います。私の人生に、もう残りは多くありません。

しかし一方で、どの道たいしたことなどやっていないので、あれこれ悩んでも無駄。そんな気もします。今は今、楽しめることを素直にやりましょう。

2025年7月26日土曜日

夜祭り

ちょっとおどろおどろしい感じですが、たまにはこういうのも。夏なのでちょっと怖い系も悪くはないでしょう。ぼんやり眺めていると怖い系があちこちに浮かんでおります。



これはしかしそれを狙って描いたものではないのです。適当に筆を走らせて、具象でやっていまうと形がハッキリするので他のものには見えなくなってくるのですがしかし、荒っぽいままの状態かイメージを早描きしたままで止めると、そこには色んなものが浮かんできます。これは描画の上でのちょっとした楽しみでもあります。心霊写真の殆どはそれであると以前述べました。

どうせ出るならドンドンでてもらおうということで、今後もこれ系を時と次第でupしてみるつもりです。興味のない人には全然ですがね。それはしょうがない。

2025年7月18日金曜日

謎の物体wwの表面

謎の物体と言いましても、それが何であるかはどうでも良いのです。ここではそれは重要じゃありません。ここで重要なのは目に見えて脳に働きかけるイメージです。それが何であるかは一々問わない。


と言えばそれなりの製作意図がありそうな気配も漂うのですが、実はそういうこともなく、ただ描くことがどんな形になってくるか、そこだけのことなのです。如何にも尤もらしい言葉を重ねて意味ありげなことを演出もできますが、私はむしろそれを避けています。ただ、描かれるものの個人的な好みと言うか、世界は勝手にどんな人であっても出来て来るので、いつかザッとそれを推してみようとするかも知れません。

描くではなく描かれると今言いましたが、これはそういう例えなのですが、実際そういう部分から遠くはないのです。100パーセント意図を持ってそこに命中させていく描き方もあるのですが、むしろそれが崩れた方が面白いとか思っているのです。だから、描画の半分は描くではなく描かれたものです。へりくだってしまえば、成り行きとも言えます。

なので、今後も何が出るか知らないまま進むのです。

進む?

うーん、まあ、進むのでしょうね。

2025年7月5日土曜日

朽ちていくもの

例えば山や林を歩いていて、そこに今まさに朽ちていくものを発見すると私は欣喜雀躍します。そうです、私の住まいはまるっきりの僻地と言うではないにしても周辺を山に囲まれているのでこのような光景を随所に見ることができます。



これは誰かの手によって、多分周辺の農家の人であろうと思いますが、過去のいつの日かに切り倒されて周囲の枝葉や土などと混ざり合ってゆっくりと朽ちていく姿です。そのままの具象ではなく、かなり表現を自分なりに工夫しています。

2025年7月3日木曜日

睨む髭爺い

線を幾つか重ねて表現する方法は随分昔からあって、西洋の版画などに多く見られたと思うのですが、それに近くはないでしょうか。線というにはいささか面積を持ちすぎますが雑多な筆で線を引けば大抵はそうなるのです。ほぼ横の線を気ままに描いていたら、その強弱や集合によって髭面の爺さんが出てきました。



そう見えない人はそれで良いのです。他のなにに見えても結構。でもこういう顔をした人、割と存在しています。口の周りから顎にかけて白いひげを生やして機嫌が悪い。

言ってみればこれも一つの実験です。描いている内に何が現れるかを一切予想しない、だからこれも勝手に現れた。

しかしきっと、そう見える人と見えない人が出てくるのだと思います。そこの分かれ目がどうも私には気になるのです。どこが違っているのでしょう。

今後も描いている内になにかが出てきたら貼り付けます。とにかく何か出てくる。なぜでしょう。