2025年6月20日金曜日

襲い掛かるなにか

随分前に描いていたものだけど、どこかへ放置してしまって忘れていて、なにを描こうとしていたのかな。随分適当なことです。



しかしながら、アートと言っても意外にそんなものです。 もっとももらしくはできるけど私には似合いません。成り行きで描いていけばなんだか得体の知れない怪物になりそう。しばらくは放っとくけど、その理由もなんとなく気が進まないだけのことだけど、更に掘り下げたら、この頃は妙に妖しげが多いなと、そんな気がしたからです。

そんな気がしたというのは正直じゃないですね。もとからそっち系なのです。絵を描き始めたのだってどちらかと言えばホラー系ですから、でも今のところはあまりそちらに傾かない方がよいと思ったりで、日頃の思考がまったく定まりません。ブログのタイトルからしてそれでいいのだと割りきっておりますね。

いっそそっちへドンドンいってしまってもいいのです。私のなにがどうあっても世間にはなんの関係もありませんし。


2025年6月18日水曜日

これはアートだろうか

道路の側壁。歩いていて時々こう言うのを見るけど、これって誰かが描いたものでしょうか。それとも自然の悪戯かな。



自然になんてことがあるだろうか。これはもしかしたらコンクリートの隙間からはみ出てくる雑草を刈り取ったあとでしょうかね。グルグルと回転する歯で刈り取る。 或いは固いブラシを回して摺りつぶしてしまう。そして傷跡だけ残った。

でもそれだったらもうちょっとしっかり刈り取ってしまえば良いのに、随分適当な感じです。綺麗にするようなところじゃないし、どうでもいいんでしょね。もし、非常に細かい部分を観察したり或いはコントラストや色彩を変えてやれば、こんなところからでも面白いイメージがわいてくるかも知れません。

これは完全に想像で語っているのであって、現実にそんな作業を見たことはないです。ありそうもない気もするけど。


2025年6月13日金曜日

三つの白い霊体

私は、このブログで何事かを書いたり描いたりしていますが、実のところはっきりした狙い線がある訳ではありません。そういうものはいずれ出てくれば良いし出てこなければそれだけのことという至って行動すら不明なまま時間だけが過ぎていきます。



ぼんやりと抽象系とも現代系ともつかぬことに興味を抱きつつあったころ、Web上の様々な関係するブログを閲覧しました。しかしながら残念なことに、多くのブログが既に発信を止めており、これが何を物語るかを少しの間考えてみました。それは他のプラットフォームに魅力を見出した故なのか、それとも活動の行き詰まりなのか、或いは個人の年齢と関わることなのか。

2025年6月8日日曜日

朽ちて錆びた壁

新しいものよりも、朽ちていくものは様々なものを生み出します。生むと言うよりこの際は吐き出すと言った方が良いでしょう。人間と同じです。あらゆる動物もそうですが、それは老廃物、もっと言えば吐しゃ物かも知れない。



余計なことを書いてしまいました。言葉でそんなことを言えば、恐らく絵を描くほとんどの人を敬遠させるでしょう。私はそんなものを描かないと。しかしこれは言葉でそう表現するからであって、別の見方をすればそれらはまた個別の味わいをもっていることが解るでしょう。

2025年6月1日日曜日

古い印画紙--2

現れる模様に何かを感じることがあるかないか、そこは微妙な分かれ道です。汚れやカスレは時には魅力的な模様を作るし、時には暗示的でもあります。



勿論、なにも感じなければそれでも良いのです。私も全てのことに何等かを感じているわけではありません。しかし感受性は多くても悪くはありません。

印画紙というよりこれはフィルムと言った方が良いでしょうか。タイトル上のことで大した意味はありません。どこかの風景を撮影したもののように、一見、池か湖のような風景が下部に見えます。上は殆ど空でしょうが、何が出現しています。

映画を観ていると、時々映写機からカラカラと音を立ててフィルムが外れるときのシーンを暗示的に入れることがあるようです。改めて探すとなるとなかなか見つけられないのですが、過去には何度も見かけました。あのようなシーンが度々用いられるのはどんな理由からでしょう。

そうです、あの頃から、というよりこれは時代とは関係ないのですが、古いフィルムに、シミかカビか汚れか知れませんが、シーンに浮かび上がる映像を眺めて、まあ、これはちょっと説明が難しいのですが、ぼんやり眺めていたことがあります。

つまり、なんであっても誰かが敢えて工夫したものではないところの模様とでもいうのか、描くものよりもそういうものに魅かれるのです。

2025年5月23日金曜日

描画の途中で何故か立ち止まる

分岐点みたいなものが見えるのです。そのまま具象に進むか抽象風にした方が面白いか。いつの頃からかこれが顕著になりました。



以前ならこういうことはありません、そんまま何の疑問も感ずるところもなく具象に走りました。しかし一旦別の表現を試み始めたものには、それに応じて分岐点が増えてきます。これは苦労とも言えるし楽しみとも言えるものです。

今の私にはは克明描写はかなり遠い存在になりました。もっとも、最初からあそこに入る素地はまったくありませんでした。子供のころからそうでした。せっかくの絵画なのに何故あそこへ行くのか、という疑問もあるにはあるのですが、そこは個人の自由であります。人にはそれぞれの世界がある。

こういうことですので、具象であってもなるべくはその人個人の表現方法が如実に表れている描画に私個人としては魅力を感じます。この絵も、具象で行くにしても、ここから様々な方向へ持っていけます。

しかしこのブログでは概ね抽象現代風でまとめたいと思っています。模索を進めているわけです。そしてずっと模索が続く。

何故と思いつつの毎日です。不透明な水彩です。

2025年5月18日日曜日

古い印画紙

その気になって言えば、描かれるものは何でもアートな訳です。特に古いものから想起されたものの魅力はとても香ばしいものです。



砕けて言えば、そう見えた瞬間で既にそれはそれで良いのです。そこに適当にタイトルを付けて尤もらしくしても良いししなくても良い。だから、楽しい。

勿論、人には好き好きがあります。私に関して言えば、目的を持って描かれたものでなくても魅かれるものが沢山あると普段から申しています。 

モノクロに関してはより一層その感を強くします。出足からして目的を持たない方が良いとすら思います。

とはいえ、このブログの進め方と同様、私自身描いていることの理由すら自分でもわかりません。描いてそれがどうなるのか、そんなことばかり考えます。現実にこうやって少ない閲覧者様に見せているしかないのです。

それ以上のあれこれはやめましょう。そういうのはいつだってうんざりですから。


2025年5月10日土曜日

何気の落書きが面白い

何かを狙って描くことは描く人の概ねがそうであって、そこを充実させねば達せるものはないでしょう。しかしながら物事は、期待しないものからでも当たり前に生まれるものです。



何気もない描画でもない描画に、時々引っかかるものがあります。こういうことは何度も起きていて、いつかは描画のヒントになることと思うのです。特に描くものがやや抽象風に傾いてからはその傾向が強いです。これはダメだと思ったものに少し絵の具を被せるだけで別のイメージが浮かんでくることが少なくないのです。

もっとも、そこから結果的に成功に結び付く確率はまだ低いのですが、それもあまり気にせずに絵の具を扱うその時点を楽しむことができれば得るものは多いのではないかと思うのです。

まあ…、なんでも前向きでなければ進展はしません。どんな取り組みをしたって他人様が困ることはありません。なんでもやってみたいと思いますね。

これは遊びと考えてよいでしょう。が、遊びは非常に重要なものを含んでいます。

2025年5月2日金曜日

現れたイメージに魅かれるものさえあれば

物事はそこだと思います。他人と感性がズレていることなどこの際関係ありません。それを言っていたら人は皆観る者を意識したものしか描きません。商売を考えたらそれがもっともです。しかし少なくない描き手は、それとはまた違った意識で描いています。そして、何をやっても良いのだと考えます。



勿論、描いて世間に見せているのですからそれなりの反応は一応は気にするところです。しかし、それであっても見る人を意識し過ぎた絵はなんとなく面白くないものです。私の場合、今や全くの個人的な楽しみと呆け防止以外の何でもなくなってしまいました。筆を動かしている、絵の具をこねていることが楽しいのです。ブログはまあ、描いたから作っているようなものでしょうか。

2025年4月21日月曜日

描くことに理由付けはしないが

別に具象でもなく抽象でもなく風景でもなく敢えて何かを表現したものでもない。そんな絵を描きたくなります。事実、私がこの頃描いているのはおおよそそんなものばかりです。



これで良いのか、という疑問さえすでに私にはありません。そのようなことは私にはもう無意味になりました。いつからそうだったかは、もう覚えていません。絵を描く人は、その類に関して得々と述べる人が少なくありません。どちらかというと私は、それらに少々うんざりしてしまったのかも知れません。今の私は、描くことに一々の理由を付けない。これをなるべく心掛けています。これをやると、なんだか全然面白くなくなるのです。

2025年4月11日金曜日

古木のイメージから

見えているものをそのまま描くのではなく、今ひとつ、何らかの暗示的な表現ができないものかといつも悩みます。明暗だけで描いても、やれその配置が気に入らないとか筆振りがもうちょっと、とか色々悩むことも日常です。



この絵はちょっとオカルトっぽくなりました。モノクロで描くと具象でない限り割とそうなりがちだと思っています。暗示に留めた絵は見方によって色んなものに見えがちです。

2025年3月29日土曜日

失敗は常に宝物

このようなものに一々の評価を与える必要はありません。この絵は筆が重なりすぎて狙い通りには行きませんでした。しかし、しくじったものは絶えず別の面白さを引き出します。その部分に鈍感であったら物事は面白くないと思います。



もちろん、描いている本人にしかそれは概ね見えません。本人には頭の中に思考の繋がりが存在するからです。 しかし経験を積んだ人なら、本人より更におもしろいイメージを思い浮かべるかも知れません。絵画の取り組みの多様さ経験と言ったものは口ではごまかせないものがあります。この点で絵を描くなかでも少なくない人たちは少々絵に言葉を重ねすぎると私は思っています。絵だけを見せてくれたほうが余程に良いのにと思うことがあります。

2025年3月24日月曜日

モノクロスケッチは日頃の嗜み

それを作品にするか否かはともかく、黒の絵の具を水で溶いただけで何事かを描くことを私は日課にしています。それはとにかく、形になっていてもいなくても良い、自分の感触としてなにかが出ていればよい。そういうものです。



それが何故モノクロかということに関しては多少の理由があるのです。概ねは絵画を考えるときにまず最初に明暗を考えてみたいというところから出発しています。

勿論、明暗を考えないアートも存在します。色彩だけで表現するタイプも当然あります。しかし私は明暗により多く魅かれるものを感じています。

2025年3月17日月曜日

夜の灯り

街を歩いていてどきどきこんなシーンを目にします。いや、そんな大げさなことじゃありません。寒い夜の道を居酒屋を目指して歩いていて、その途中で門の明かりで投影された影のイメージです。


しばしぼんやり眺めました。 元々夜が好きなのです。陰影が好きです。夜の感じが光で演出された時、とてもドラマチックに感じます。これは本当に、普通に何でもない光景なんです。多分多くの人は振り返りもしないでしょう。探せばいくらでもありそうですし。でもその時の私には新鮮でした。なんだかシルエットの人形劇のようです。

2025年3月9日日曜日

どんなものからでも触発されるのだが

このブログの初期でも述べたことですが、私たちが絵を描き始める端緒はどんなものでしょうか。私はもう三十年以上前に一旦中断して再び描き始めたのは今から今から数年前です。何故再び描き始めたのでしょう。


いや、そもそも中断の理由は何だったのか、それはまあ物理的に家庭の事情でありまして、経済的な極度の悪化を経験した者は、絵を描くなどという余裕はまったくなくなるものなのです。それが個人の収入と深く結びついておれば良いのですが、私の場合精々がサイドビジネスでした。従って、収入に結びつくことに関しては細々と作業をしていたのですが、個人の領域の絵はまったく描く余裕がありませんでした。そして今、描いていることを思えば、それは多少なりの余裕が生まれたということでしょうか。

2025年2月22日土曜日

意図しないことを面白く感じる

どいういう訳か、描くということに少々退屈を感じていまして、むしろ無造作に勝手にできたようなものの方が面白いと感じるようになって久しいです。そして昔はかなり影響を受けた先達の絵に関しても、現在の自分の好みからはちょっと離れてしまった感を受けることが少なくありません。



何故そうなってしまったか、については自分でも分析できません。あまり意味がないように思います。描くなりにそうなってしまったとしか言いようがないでしょう。

過去にも、ある人の絵柄が急に変わったような印象を受けることがありました。その方と同じという訳ではありませんが、誰にもそのようなことはあるのであって、私も例外ではないというだけのことです。

一旦そうなってしまうと、その辺のどこを歩いてもアートを見つけることができます。普通の人にはなんら目を引くようなものではないことが私にとってはとても魅力的に思えることが多いのです。

しかしそれを昇華することも難しいですし、まだその状態では共感されることも殆どないのでいささか悔しい所ではあるのですが、それはしかし、単純にトライが未熟だとしか言いようがありません。

このブログでは成果を気にせずに遊んでみたいと思います。

2025年2月16日日曜日

なんだか更新が緩慢

でもそれでいいのです。絵を描いているから更新しているのであってブログの更新のために絵を描いているのじゃありませんからね。とはいえ本音ではもう少し元気に行きたいものです。



相変わらず意味なさげな絵ばかり描いています。このブログではそういうことをやっております。実験をしているといえば良いでしょうか。それゆえバシッとした完成作のようなものはないので、ブログもあまり宣伝せずに慎ましやかにやっております。

ちょっと余談しますが、ブログのアクセスと重要度は、実はあまり関係ありません。色んなブログをやってきたので、なかにはかなりアクセスの多いブログもあります。けれど、そういうブログのアクセスが減ってくるとちょっと気になって、適当な記事を書いたりして繋ぐのですが、そういうのはブログの落とし穴かもしれません。よく考えてみると自分にはあまり意味がなくなっていたりします。当初は色々考えていたのですがね。

2025年1月28日火曜日

あれこれとあって

実は、今回の風邪は奇妙なものでした。絵を描くにはあまり支障はないのですが日常的にはちょっと困りました。少々匂いに鈍感になったのです。もちろんこれは風邪の一般的な症状です。しかし長引きました。



年始に風邪を引いたことは以前に書きました。体は別にどうと言うことはないし、でも外に出るとやっぱりちょっと寒気がしたりで、完全にはなかなか治らなかったのでしょう。頭がヒリヒリしてなかなか取れないし、食べ物の味も一時は悪かったのですがそれも取れたと言うにまだ匂いに関してのみ変だったのです。匂いというよりは臭いの方ですね。つまり腐敗臭に鈍感になりました。

2025年1月17日金曜日

我、荒れ野に彷徨うごとし

どうも年が明けてから物事がうまく行っていないのです。ずっと体調悪くて…。単純な風邪なのですが、熱もなく寝込むほどじゃないにしてもズルズルといつまでもという状態でした。


ああでも、それもようやく収まってきて、ようやく外出くらいはできるようになりました。こういう時に、一人の穴倉生活に似た身の上は情けないものです。食べるものが底をついても出るのが大変。ならもう食べるのもいいやという感じで、どうせ味が変だからスープくらいしか食べられないしで、ドンドン投げやりになります。

この何年間は風邪らしい風邪もひかずでして、今回もその程度だと思っていたのですが、異変を感じたのが外出中だったので対処が遅れました。

2025年1月4日土曜日

新年ですが

既に四日です。なにも変わらないのです。私にはもう盆暮れ正月は基本的になくなりました。一人で生きているというのは大方そういうものです。少ない仲間と忘年会くらいはありますが、それとて毎年同じことを呟くばかりです。いつまでこうして集まれるだろうか。


伐採樹

もう年賀状のやり取りもなくなりました。面倒だからほぼメール。私より高齢の人には返事を即すことになるとむしろご面倒をおかけする。そんなことでいつしかなくなりました。子供の頃は本当に楽しみでした。なにしろお年玉があったし、正月映画がありました。今はどうなんだろう、何がたのしみなのだろう。そんなことを思います。